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弟 (寝起き) [家族の肖像・笑]

私も弟も寝起きが悪い。

弟は、勤める前に実家の魚屋を少し手伝っていた。

家と店は、徒歩で3分くらい離れていた。

夜更かしがすぎるので なかなか起きられずに

店から母の催促の電話がかかると私や祖母が起こさなければならなかった。

まともに声をかけても 早々起きず、すこししつこくすると悪態をついたりする。

一旦、起きたかと思うと何度も寝直す。

その度に 母から起こしてほしいと電話がかかる。

かなり、無意味にうざいのである。

そんな日が、何度も何度もあるので私も腹が立ってきた。

いつものように声をかける。

「ほら、佳子(母である・笑)から来いって電話かかったよ。」

「うーん、わかったよ」

絶対に起きて行ってね」

「わかったよ、もぅ」

しばらくして見に行くも 当然のことながら起きない。

「また、電話かかってくるから、面倒だから起きちゃってよ」

「もう少ししたら、起きるってっ!!!」

と、そこで私はキレたのである。

「起きろ、すぐに起きろ、今すぐ起きろ」

と、弟の体をゆすった。

当然、弟もキレ気味で

「起きるって言ってるだろっ」

「おめぇが、そおいって起きねえから何度も何度も電話かかってくるんだろっ、

その度になんで私がお前を起こさなきゃなんないんだよ。

いいがげんにしろよ。」

という間、ベッドを蹴り続けた。

「わかったから、起きるから。」

と、起きるようになった。 めでたし、めでたし。

ある日、弟にどおやって起こされるとすぐ目が覚めるものなのかと尋ねた。

そうすると 一番すぐに起きてしまうのが祖母らしい。

ある日、祖母が起こしに来た。

例のごとくに のらりくらりとやり過ごし、何度目かの時に

「ひでまさくん、早く起きて店に行ってやってくれよ。」

と、静かに言われて

なんだか日ごろとは違う感覚だったので ふっと眼を開けた。

すると祖母が、ほんの5㎝くらい離れたところまで顔を近づけ覗き込んでいた。

目をあけた瞬間の恐怖・笑。

それからというもの、祖母に起こされる時には早めに目を開けるようにしたらしい。

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母の教え [家族の肖像・笑]

山形の田舎者であった母は、とにかく子供にも容赦なく歩かせた。

一駅二駅は、あたりまえ。

幼少時に「金太郎」といわれていた自分はそれほどこたえないが、

ガリガリの虚弱体質で甘えん坊の妹と弟は

途中からはたいてい父と母に抱っこされていた。

つまり、わしには頼れる両親の腕は余っていなかったわけで、

両親も健常なわしは歩き通せるはずという勘定であっただろう。

ある日、「多摩川園」という小さな遊園地に歩いていくことになった。

その時は、幼稚園の年長さんくらいだったと思う。

途中で親戚の家にも寄ったので通常よりも遠回りになっていた。

わしはといえば、道すがら道端の花や小さなお地蔵さんなどなどの

わしなりの興味深いものをしみじみと眺めてはお散歩気分で歩いていた。

その日初めて歩いた道のりだった。

小さな遊園地についていろいろと見て回ったり、乗り物に乗ったりしてから

しばらく、家族でサル山を眺めていた。

なぜかその日はとてつもなくサル山から離れがたくなり・笑、

両親が催促してもどうしても見続けていた。

少しして家族がいないことに気がついた。

なぜだったのかわしは「置いて行かれた」と実感してしまったのだ。

そして、通常なら不安になって泣いたりするのだろうけど、

怒って「私も帰ろっ」となってしまった・笑。

ぷんぷんとふてくされて歩き出した。

少しすると「どうやってかえろうか?」と考えたものの。

園からはすでに出てしまったので行くしかない。

なんとなくうろ覚えの道を歩き出した。

分かれ道になって「ふーーむ」と思った時、

生垣の花に呼ばれた気がして近づくと「あっ、さっき見た」と確信した。

そんな按配でなんなく家に戻れてしまった

驚く祖母に「お父さんとお母さんは?」とふてくされていうと

祖母「お前、一人で帰ってきたのかい?」

私「そおだよ、みんな帰っちゃってさ」

「心配して電話かかってきたんだよ」と言われた。

しばらくして両親と妹・弟が帰ってきた。

勘違いしてしまった手前ふてくされ続けていた自分を

「よくあんな所から帰ってこれたねぇ、すごいねぇ」とほめてくれた。 

多摩川近くに住んでいたので

当時まだあった「二子玉川園」にも歩いていくことになった。

まずは、多摩川に出て川沿いに歩いていった。

土手には、いろいろなものが生きていて楽しかった。

蛇もトカゲもバッタもいて楽しくて仕方がなかったので

少しも疲れなかった。

不思議と遊園地の内容はあまり覚えてはいない。

ただ、帰りは電車だったので階段の上り下りが多くてかえって疲れたくらいだった。

小学校へ入った頃、家族旅行で海へ行った。

旅館から海までどれくらいだったかわからないけど

例によって歩いていくと母が言い出した。

旅館の人が「お子さんたち大丈夫かね」と心配したら

「うちの子達は、大丈夫ですから」と自信満々でこたえていた。

少し歩いていたらタクシーが通った。

「どこまでいくの」と聞くので両親が

「海までです、ここまっすぐでいいんですよね。」と聞くと

「えっ、こんなに小さい子達歩けるかな」と

すごく心配そうにしていると「はい、うちの子達は大丈夫です」

とまたまた勝手に自信満々に答える母。

子供心にものすごく心配になったけれど、歩いてみると何のことはない距離だった。

今思うとそれほどまでに鍛えられていたからか、

タクシーが乗せたくて脅したのか... 定かではない。

そんなこんなでかなりの間は、階段は極力歩くようにし、

電車でも座らないようにし、

座っても背もたれにもたれずに背筋を伸ばすようにして座る癖がついた。

まぁ、今はだらだらと座ったり、背もたれにもたれたりしています。

お陰で体力も体形もだらだらになった・笑。

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自分/その3 ( 狭いところには、はまれ.... ) [家族の肖像・笑]

子供の頃も今も狭いところにはまっていると安心する・笑。

身動きもとれないような隙間にはまっていると落ち着くというのは、

どういった心からなのだろうか?

前に棺桶に入る体験というのをさせるというのを

テレビで見たけれど棺桶タイプのペッドがほしいと思った。

幼稚園児の頃に 家のすぐ横のブロック塀と電柱の間が好きだった。

幼稚園に行く時には、必ずその隙間を通っていくのが日課だった・笑。

鉄砲玉だったので たまに勢いよくそこを通らずに出てしまった時には、

すこしなら戻って通り直していくくらい好きだった。

今もたまにその隙間のことを考えてしみじみとしたりする自分がいて、

ちょっと怖いくらいだ。

背の低い年少の頃はよかったのだが、

少しずつ背が伸び始めたころにそいつの存在に気がついた。

大好きなその隙間には、隣の家の鉄製のポストが出っ張っていたのだ。

ある日、いつものように勢いよくその隙間を通ろうとしたら

がこっと額をぶつけた。

最高にしあわせな瞬間から思いもよらぬその衝撃に

頭の中は「・・・・?」となった。

それでも翌日も翌々日もそこは通る。

ぶつかる時もあったりなかったりした。

よくよく考えのないわしであったのでそのポストを意識するまでは

少し時間がかかっていた(アホですね・笑)。

そして、その隙間との別れは自分の成長とともに訪れたのだった。

やはり性懲りもなく勢いよく通り抜けた瞬間人生最大の衝撃があったのだ。

額が切れた。

もともと、それくらいでは泣きもしないわしだったので憮然として幼稚園へ行った。

それはまさに最愛のものに拒絶されたようなとんでもない悲しさだった。

それからというものその隙間は通らなくなった。

大人になって思えば、きつねの子別れのような.... えっ、違うか?

そして、小学生になった時、私は見つけてしまったのだ。

なにを? 隙間を..... 

同級生6人くらいと追いかけっこをしていたのだ。

しかも、見ず知らずの家の敷地内をみんなでぐるぐると勢いよく駆け回っていた。

家と家の隙間があった。

本能なのだろうか・笑、見つけた瞬間勢いよく通り抜けた.... 

がごっと頭をものすごい勢いで何かにぶつけた。

窓の格子の木の角が敵であったのだ。

「へへっ、ぶつけちゃったよ。」とてれ隠しで心配してくれた友達に言っていると

目の前の友達の表情がこわばったのだ。

どうしたのかなと思っていた時、何かが垂れてきた。

まごうことなき、ほんまものの流血であった。

他の子たちがきゃーきゃーと騒ぐ中、

「どうしようかな」と途方に暮れていたら一緒に遊んでいた

同じ年のいとこが手を引いて「早く病院行かないと」と

わしを病院へ連れて行ってくれようとした。

その道すがら流血が少し目に入り

見えている世界が赤いフィルムを通しているように全体的に赤く見えた。

「ねぇ、すごいよ。なんだか真っ赤だよ・笑」と笑っていたら

「そんなふざけてないで早く病院行かないと」正論である・笑。

道行く人は、わしをすごい顔で見ている。

途中でどこかの大人が「ほら、こっちよ」と街中の診療所へ連れて行ってくれた。

いとこはわしの母を呼びに行った様子だった。

高齢の爺さん先生が「なにしたんだ」といい、ひざに頭をのせられ、

ぶすっと頭に注射をされ、そのまま頭を縫われている様子だった。

不思議と痛かった記憶がなく、

ただずっと「頭にハゲが出来ちゃったよ。佳子(母)に怒られる。」と、

そればかりが気かがりで待合室でこわごわと母を待っていた。

けれど、いつになく優しい顔で「なにしてるのよ」と母は迎えてくれた。

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記憶と禿を残して隙間とは決別した大人な自分ではあるけれど、

また、ふと、隙間を見ると通りたくなってしまうのである。

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自分/その2 [家族の肖像・笑]



さて、

なぜ昔のことをいろいろと思い浮かべているかというと

先日、中学高校の時の同窓会をしたからだと思う。

その時の写真と映像を眺めていたら、

30年以上も前の感覚がよみがえってきたようだ。

きっと、

いろんなことがあったのだろうみんなが

当時のままの笑顔だったからだ。

不思議なことに髪型もほぼ変わっていない。

きっと、いろいろと変えてみてのことだろうかとも思うけど・笑。

当時、何でだった覚えていないけど、

豊島園に行った時だった。

これで帰ろうという時に

「最後にメリーゴーランドに乗ろう」ということになり、

メリーゴーランドにみんなで走っていった。

目の先には、夕暮れの中に

きらきらと光りながら回転している木馬があった。

急に走る足が止まった自分。

ニコニコとしながら走っていく友人たちの中へ入れなくなった。

みんなが木馬に乗って光の中にいる姿を見ていた。

なぜだったのか、自分はその光の中へ入ってはいけないように感じた。

まるでクリスマスツリーのように

きらきらとしたそれを眺めていた。

ただただ『きれいだなぁ』と思っていた。

入れないということに対しては

『かなしい』『さびしい』といった感情はかなったように思う。

それを思い出しながら、

今の自分もそうなのだと思えた。

きらびやかなライトの中のステージを撮ることは、

その時の感覚に似ているのだと。

今気がついた・笑。

そして、

その中に入りたいというわけではないということに。

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自分/その1 [家族の肖像・笑]

自分で自分を分析するのは、そうそうできないと思うけれど、

実際の行動と思ったことを書いてみようと思った。

多感な10代のわし(笑)は、いわば家族からは神経質と思われていたと思う。

実際に そうだとも思うけれど。

なんというか、自分のテリトリーの範囲、

自分と直接かかわらなければ、さほど気にはしていなかったと思うけれど.... 

身近にいるとそうとも思えなかったようだ。

ガラス細工が好きだった頃、

買い集めたそれらやミニチュアないろいろを

自分の部屋の棚にびっしりと並べていた。

その配置は、各品どれをとってもすべてどこからみても

自分なりのいいバランスで置かれていた。

ある日、帰宅して部屋のドアを開けた瞬間、『誰か入りやがった...』と感じたのだ。

ガラス細工が数点かすかに動かされていたからだ(笑)。

こんな時の犯人は、たいてい妹である。

妹に問いただした。

私 「部屋に入ったでしょう」

妹 「えっ、入ってないよ」

私 「○○と○○に触っただろっ」

妹 「えっ、触ってないよ」

私 「ウソだね、○○も左にずれていたし」

瞬きもせず声も荒げず、淡々と追い詰めるわし.....

妹 「ちゃんと元の通りに置いたのに何でわかるんだよっ」

私 「部屋に入った瞬間、すぐにわかっちゃうんだから、触らないでよ」

と、こんな塩梅で置かれたゴミの位置からすべてちょっとでも動いていると

『違和感』として認識されていた。

もしも、見せてくれと言われれば見せてあげていただろう、

触らせてと言えば触らせていただろう.... 

ただ、触らせた後で

確実に手袋をつけて そのすべてを拭いていたと思うけれど(笑)。

とはいえ、自分がきれい好きかときかれたら、

「まぁ、普通ですよ」と答えるだろう。

本当にきれい好きな神経質者だったら、

すべて片付けないと寝られもしないだろうから。

今の私の部屋は、大変ごちゃついていて実に困ったことになっているのだから。

ただ、20歳ころに 自分の中で究極の選択をしていた。

『このままで生き難く生き抜くか、はたまたこの性分をやめてしまうか』

私は、やめたのである。

まっとうなほんまものの気違いになるのを断念した。

ある時、人にそれを言ったら「そんなのやめられるわけないよ」といわれ、

「人間、ぎりぎりになったらやれるもんなんです。

あのまま突き抜けるか、

こらえきれずに自殺するか、そのもとを排除するか....」

いろいろな症状というかその『感覚』について書くならば、

たとえば、壁の一点が気になるとすると

そこに ものすごい集中力が働く、

近づくわけではないけれど(単にイメージか? 想像力か?)、

その一点が10倍100倍と拡大される。

すごい速さでズームアップされるので気持ちが悪くなる。

その『感覚』というものは、自分の意識とは関係なくやってくる。

とても、疲れる。

そして、その感覚の日常編としてはテニスをしていた時、

硬式のホールが、白線のギリギリにワンバウンドした時、

そのボールがぐにゃっとつぶれ、跳ね返った様子が見えた。

『おおっ』と見いっていたらそのボールが顔面を直撃した・笑。

他人には、笑えないとろい奴にみえただろう。 

軟式野球の時には、飛んできたボールの縫い目がしっかりみえたので

またまた『すごっ』と見ていて顔面に当たった。

この時には、本当に星が飛んで「本当に星が見えるんだなぁ」と感心した。

また、ある時には虫が飛んできて

その虫の毛むくじゃらな様子や触角がはっきりと見えてしまい、

そのまま目に入ったこともあった。

大変、難儀なのである。

今、あまり書き連ねるとなんなので(なんなのだろう?)

じわじわと馴染ませるために他のことは後にします・笑。

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マツばぁさんと小学生のわし/その1 [家族の肖像・笑]

寅年、明治生まれの祖母は、

もともと、気もつよくプライドも高かったかもしれない。

しかし、コンプレックスも結構あったようで

自分が小柄で鼻も低く(谷間のマツといわれていたらしい)、

襟足も丸かった(理想としては、長く中央にもすっとなっているのがいいらしい)。

ただ、人に負けないものは、とても色白だったことだ。

『色白は、七難隠す』とわしによく言い続けていた。

わしも色白な方だったし、どちらかというと

子供のころは男の子のようで無愛想で不細工な方だったので(笑)、

すこしあわれんでいたからか、

言いたいことを言い合える間柄だったからか。

(たんにわしが敬っていなかっただけなんだけど・笑)。

ある日、そんな祖母といつもの口ゲンカになり、

「そんなこというとおばあちゃんはあの前の踏切に飛び込んで死んじゃうからね」

というので 「いいよ、死んじゃえ」と捨て台詞で小学校へ行った。

道すがら、授業中、そんな言葉が気になり続けた。

『もしも、死んじゃってたら』

『そしたら、自分のせいになっちゃうんだろうか』(これ重要な気がかり・笑)

子供心にかなりのどきどき感で帰宅した。

ばぁさんの部屋からTVの水戸黄門を見ている音がする。

恐る恐るふすまを開けるとばぁさんはせんべいを食べていた。

「お帰り、ほらせんべい食べな」といつものように微笑みかけてきた。

幼心に『こいつは、絶対死なない。少なくとも自分で死んだりしないだろう』

とそれまでの心労を考えるとがっくりきた。

それと同時に安堵感も湧き上がった。

気が強くケチだったばぁさんと山形の田舎者の母とはかなりの嫁姑の確執があった。

まぁ、それはいずれ。

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