So-net無料ブログ作成

音楽に映像は必要か [・・・♪]

「音楽に映像は必要かな?

という去年の神の問いにずっと考えを巡らせていた。

音と映像。 聴覚と視覚。 

まず、音のみで音楽を聴くと そこには聴く人の想像力と知識がかなり影響する。

なんの楽器だろう? どうやって出しているんだろう? って。

それ以上に 私の場合には頭の中で映像や絵が浮かんでいた。

3D状態だとかなりやばい・笑。 でも、ものすごく楽しい。

そんな時、自分の脳は薬物いらずの優れ物だと感じていた。

けれど、撮らせてもらっていると それはまったく.なくなってしまう。

あるのは、目の前でもなく、ただ小さいモニターの中の「現象」だけになる。

ただ、撮っているその瞬間はすごく感動していたり涙が出そうになったりすることもある。

音楽もちゃんと聴こえているしノリノリでもある。

ただ、眼で観ているものと同じように

その瞬間瞬間に 瞬時にまったく塗り替えられていくので 余韻はほぼない。

実のところは、撮っていると終わった直後に記憶がほとんどない。

けど、多幸感は存在する。

何日かすると 無意識の中で記録されている記憶が甦ったりする・笑。

だから、ライヴが終わった後で「よかったよねぇ」といわれても

(よかったことはよかったんだけど・笑) 悲しくももったいなくも

直後には、その実感を素直に共感できなかったりする。

自問自答の最中に 友人からも

「でも、撮っているほうが楽しいんでしょ」といわれて

「うーーん、でも、聴いているほうがきっと楽しいと思う、

でも、あとで観てみたいとも思う。」というと、間髪おかずに

「いやいや、絶対に撮っているほうが楽しいんだよ、だから撮りたいんでしょ。」

と、にこにことしていわれるけれど、確信が持てなかったので

「うん」って100%で同意はできなかった。

それから、その感覚のままにずぅーーっといた。

撮らせてもらったライヴの帰りの夜行バスで その問いをずっと考え続けた。

なんだか、衝動のように どうしてこんなにもライヴを撮りたいのだろうか? と。

嫌がられても撮りたいのか・笑 好きなだけという以前のこの衝動感。

考えながら 居眠りをしていたら、妄想とも夢とも思えぬ夢を見たように思う・笑。

夢の内容は、気違いじみてしまうので 内緒にすることにします・笑。

一部、、、

インターネットの世界では、ネットが繋がって構築された時点から

その世界は、膨大なデータの中で過去も現在も繋がっていて(架空設定)

その無数の毛細血管のような細い(実質的には物質として存在はしていまい)

つながりをたどることによって 繋がりたい過去の個人に接触できる. 

ということで 遠い未来の見知らぬ青年たちから 依頼されているそうだ・笑。

ずっと、そんな夢うつつの状態だったので

ものすごく疲れて 眼が覚めて 『やっぱ、わし気違いかも』と思いながら

そのことばかり、妙に真剣に考え続けてしまった。

とはいえ、撮り始めのきっかけはボスなのである。 機会とチャンスをいただいた。

そして、年末の13日のサンヘドリン、

22日のペンギンハウスでのライヴを聴きながら確信したのは、

「私にとっては、音もさることながら、ライヴの楽しみは演奏している姿なんだ」

これを実感してしまった。

音に演奏する姿がついてくるのか、演奏する姿に音があるのか、

私の楽しさは、後者のほうが強いと思う。

音楽家の方からしたら、本当に失礼なことなのだろうけれど。

DSC00061.JPG

そして、24日に「ともだちはじめ」を観て聴いた。

なんだか、衝撃だった・笑。

ギターという楽器のキラキラとした音が聴けた。

津山さんと山本さんの音の美しさを実感して

「やっぱり私の知っている音ってほんのすこしなんだなぁ。」と

知らない音に出逢えた嬉しさにそう思ってしまった。

そして、心底撮っているよりも観客で聴いて観ているほうのが

絶対に楽しいと思った。

「もう、録画なんてどうでもいい」と本当に楽しんでしまった・笑。

そして、何日がすると「なおのこと、あのライヴが撮りたい」と思うのだ。

これは、ほとんど病気なのだろう・笑。

でも、あの音には、無邪気な楽しさや笑い、

そして、天然の音のようなきらめき、

なんといっても そのすべてに技術が潜んでいる。

アコースティックギターのデュオの時に 深い森林を散策しているような心地よさがあり、

その音の中には、木漏れ日や緑の香り、素足で苔の上を歩くようなふわふわ感、

小川のせせらぎ、遠くから聞こえてくるような獣たちの息吹、、、

久しぶりに 感性を全開にして楽しんだ。

やっぱり、どうにかして残したい。 もう、病気なんです。 本当にごめんなさい。

1年や10年、自分が生きている間なんて短い次元ではなく

そんな短い先のことなんてどうでもいい、100年や200年後に残せたらと

そんな無謀な思惑にとりつかれています。

どうしたら、残せるのだろう。

自分に子供でもいたら、引き継がせられるかもしれないけれど。

ただ、なんといっても申し訳ないのは

この妄想とも思える思惑では、アーティスト様たちには1円も入らない。

無償になってしまう、、、

そうなると、やっぱり私個人の趣味なんでしょと思われても致し方がないのだ。

私は、音楽が好きなわけではないと思っている。

好きな音が好きなんだと思う。

音楽が好きな人は、もっともっと他にもあるはずだと

いろいろと聴きまくったりするんだろう。

でも、私は「ああ、いい音だなぁ」と思ったら、

そうゆう音に出逢えたら それを聴いていて満足してしまう。

そして、あえて言うなら天然の音の方が好きなんだと思う。

風の音とか川の流れる音とか狼の遠吠えとか、雷とか虫の羽音とか

目を閉じてそれを聴き分けていることの楽しさはなんともいえない。

そんなこんなで また、ずっと考えている。

今現在でさえ、これから増えるであろう映像データたちの保管。

どうしたものか....

そんな時、帰宅途中の夕暮れの空。

透きとおった空気の向こう、

ぼかしの効いた空に影絵のようなシルエットと三日月があった。

きれいだった。

「ああ、こんなきれいな透きとおった空を

100年後200年後のやつらにもみせてあげたいなぁ。」

本当に無意識に頭に浮かんだ思い、

「そっか、こんな気持ちなんだなぁ....

ぼんやりと気がついた・笑 

2014.04.06-05.JPG



共通テーマ:blog